戦わずして勝つとは、優れた定石を身につける事なのである。

 

兵法書は、本来、戦争に勝つための道具である。
しかし、孫子が一番大切に考えているのは負けないこと、つまり「不敗」であった。


兵は国の大事なり。(孫子の言葉)

「戦争は国家の重大事であって、国民の生死、国家の存亡が掛かっている。それゆえに細心な検討を加えなければならない、と・・・・。


人類の歴史は、戦争の歴史である。

絶え間ない春秋戦乱の世にあって、同時代の思想家には反乱、非戦に通ずる主張をする者もいた。
しかし、孫子は、戦争のなくならない現実をしかと見すえ、戦争の惨禍(さんか)を極力少なく抑える道を模索した。

それは、武力に頼って敵を殲滅(せんめつ)するのではない。
勝つことより、負けないことを主眼に置いていた。
武力以外の要素も使って、敵を屈服させることであった。

これが、いわゆる「戦わずして勝つ」という孫子兵法の要諦(ようてい)に他ならない。

戦わずして勝つとは何か?

・「不敗」こそ大切
100%勝てるときしか戦わない事

戦うのは、有利な時だけ
勝利を100%確信できる状態の時だけである。

それ以外のときはどうするか、?


・戦わない決断
・やめる勇気を持つ
・逃げることに専念
・+優れた定石(勝つ方法)を身に付けること


「負け組」は、いつの時代でも学ばない人である。
良い定石を学んで覚えた人は、多少賢い人が、知識ゼロで戦う程度なら勝てる。

頭脳が優れた天才でも、定石を知らなければ簡単に負ける。

優れた定石があれば、必ず勝てる。

【定石】じょうせきとは何か?

囲碁で、最善とされる決まった打ち方。転じて、物事を処理する時の、決まった仕方。 
・(定石)囲碁で、昔から研究されてきて最善とされる、きまった石の打ち方。
・ (定跡)将棋で、昔から研究されてきて最善とされる、きまった指し方。
・ 物事をするときの、最上とされる方法・手順。「―を踏んだ捜査手順」

家康も、戦わずして勝つ人であった。
信長やら秀吉やらに反旗を翻さず、ひたすら優れた定石を学ぶことに専念した。

優れた定石とは、信玄兵法、薬学、柳生剣術・・・・である。

だからこそ、秀吉死後、いとも容易く、天下獲得し、長期に渡る天下泰平を保てたのである。

 


 

物事には必ず【原理原則】(道Tao)がある。

表題にある【原理原則】とは、何か?
その言葉自体が、抽象的すぎる。

ネットでは、下記意味合いで記載されている。

まず【原理】と何か?

多くの物事を成り立たせる、根本的な法則(規則)。認識や行為の根本をなす理論。

次に【原則】とは何か?

特別な場合は別として、一般に適用される根本的な法則。

まだまだ、抽象的すぎる。
分かりやすく、ネットには、下記記載されている。

【原理】とは、

・その物事が成り立つための宇宙・自然界の性質(理)
・ 「原(もと)となる理屈」

【原則】とは、

・その性質に対してどのようにするかを人間が決めた規則のこと
・「原(もと)となる法則」、

我々は、「原理・原則」を知らねばならない。

何故なら、 ロジカルに考えるには、、原理・原則で考えてみなければならないからである。
「原理・原則」 を知れば、なぜなぜ分析やPM分析も容易である。
「 原理・原則」を知らなければ、 奇跡的にしか勝つことはない。

原理・原則を理解することが、人生では一番重要である、

原理原則とは、絶対的なものであり不変的なものである。

物事には、必ず原理原則がある。
ビジネスにも、人生の幸福にも
原理原則が存在する。

それは、一過性の手法でもなく、
過去のデータから編み出された法則性でもなく、 時流の変化も関係なく、唯一不変ものである。

世の中には、原理原則というルールを知る人間と、原理原則というルールを知らない人間の2通りしかいない。

ルールを知り、ルールを活用すれば、
そのルールの中で、自分のルールを生み出すことが可能となる。

しかしゲームのルールを知らずして、ゲームを勝つことは不可である。

原理原則を知らなければ、いつまでたっても、サイコロを振って運任せに行動する他ない。

 原理・原則を考えて、問題を解くことで、思い込みよる判断をなくすことができる。
このことは、PM分析の現象の物理的解析や、なぜなぜ分析の原理・原則から解決する最初の「なぜ」につながる。
真因を突き止めることで、また一歩、改善されていく。


ところで、老子の説く人間の生き方とも、無為自然【原理原則】に従うことである。

無為自然とは、この宇宙に貫徹している原理原則に添った生き方をするということである。

その原理原則を「道」TAOと老子は、名付けた。

格闘技も、原理原則に添っている。

格闘技トレーニングは、毎日同じことを単調に繰り返し繰り返しする。
しかし、 格闘技トレーニングは、原則原則に添ってやらねばならない。
パンチする時は、肩甲骨をカクンと落とし足腰の力で打たねばならない。
その原理原則が出来るように、反復練習し、身体で覚え込ませる。

ひたすら同じこと=【原理原則】を繰り返し繰り返し、トレーニングしないと、格闘技試合では勝てないのである。 



我々は、あらゆる分野における「原理・原則」を知らねばならない 。
原理原則に添って生きることこそが、確実だからである。

家康の場合、あらゆる分野の【原理原則】をマスターしようとしていた。

政治、兵法、武術、砲学、薬学・・等

【原理原則】を知る為に、あらゆる分野の専門家を、次々と徳川家臣とした。

【原理原則】に添っていたからこそ、滅びることなく生き延び、秀吉死後、容易く、天下獲得、天下統一出来たのである。

小さな改善こそが強さへの道

表題にある『強さ』とは何なのだろうか?
『強さ』とは、誰もが認めざるを得ない『実力』である。
強くなるとは、実力を高める事と言える。


強くなるには、どうすればよいのか?
実力を高めるには、どのようにすればよいのか?
純粋な気持ちで真っ直ぐに、一つの事を究めていくしかない。
だからこそ、小さな改善の積み重ねしかないと言えよう。


小さな改善をするには、どうすればよいのか?
常に数多くの問題意識と真っ直ぐな目的意識を持ちながら、小さな改善一つ一つに謙虚に取り組むだけである。


問題意識は、人それぞれである。
目的意識も、人それぞれある。
例えば、ボクサー🥊でも、目指している目的意識=ボクシングスタイルが、人それぞれである。


パワーで押しきる、ボクシングスタイルのボクサーもある。しかし、 井岡一翔(いおか かずと )が目指している『打って打たれないボクシング』ボクシングスタイルを、目指しているボクサーもいる。


打って打たせない為には、井岡一翔は、足の運びの練習をしているらしい。。


私もボクシングを練習しているが、やはり、 当たらずに当てるボクシングスタイルを目指している。

 


私個人も『打って打たれない』ボクシングを目指したい。
何故なら、パンチが当たると打たれると、痛いしダメージが残るからである。


最近、私は、爪先で蹴ることを意識した練習をしている。


スポーツジムのマシーンも、階段マシーンを使い、爪先でペダルを蹴る練習で汗をかいている。


フットワークが上手くなるには、爪先での蹴りが強く速くなければならない。
爪先での蹴る力が速ければ、相手の動きに合わせられるし、相手を翻弄する事も可能なのである。
爪先での蹴りを練習すれば、フロントキックや膝蹴りの上達にも繋がる。 


ところで、先ほど、小さな改善をするには、常に数多くの問題意識と真っ直ぐな目的意識を持ちながら、謙虚に取り組むだけと、述べた。
今回、『謙虚』『問題意識』『目的意識』について、具体的に述べてみたい。


1 【謙 虚】


謙虚とはどういう意味か?
『自分を偉いものと思わず、すなおに他に学ぶ気持があること。』と記載されている。 
いわゆる、純粋で真っ直ぐと言う意味合いであろう。


純粋に、能力向上に対する貪欲な意欲があるなら、誰もが謙虚になれる。


 下を見て練習している選手は、負けると自分を否定されたような気持ちになる。
自分自身は、強いと自負していているからである。
そして、2~3回も負けが続けば、競技そのものから離れていく。


上を見て練習している選手は、負けると、やっぱり自分は弱かったんだ!と再認識するだけである。
常に、更なる高みを目指しているからである。純粋に貪欲に能力向上を、目指しているからである。
逆に、負けたことに感謝する。


そして、負けた原因を追求し、改善し、どんどん強くなることが出来る。
 
2 【 問題意識 】


問題意識とは、どういう意味か?
『(他の人があまり気づかないが)これこそ問題だと、それをとらえる意識。また、その問題に積極的に取り組もうとする心の持ち方。』と、記載されている。
 
 格闘技を習っている人の中で、半年経っても、一年経っても、あまり進歩していない人がいる一方で、数ヶ月の間にどんどん進歩する人もいる。


その違いは何かと言えば、自分でこういう問題に気付き、修正する意識を持てるかどうかなのである。


どれだけ多くの問題に気付き、どれだけ早くそれらを改善し続けることができるかが、その人の進歩の速度であると言えよう。


今の自分のパンチや蹴りで満足してしまい、改善すべき問題を改善しないままでは、どんなに練習しても強くなれる幅は限られてしまうからである。


 自分で、考えて考えて考え抜くこと
 
結局、一番大切なことは、自分で考えて、考えて、考え抜くことが問題意識なのである。 


常に、問題意識を持ち、その回答を探し求めるのが、日々の『練習』なのである。


どうやったら、強い攻撃が出せるのか?


どうやったら、攻撃を当てられるのか?


どうやったら、相手の攻撃をかわせるのか?


常にテーマを持って練習を続けていくのが一番重要なのである。


3 【 目的意識 】


 人が行動するとき、そこには目的がある。
私も、終身雇用で一生を捧げるつもりで、就職したが、転職する羽目になってしまった。
転職する時、物流倉庫を徹底的にマスターするつもりであった。又やむを得ず、転職する羽目になっても、転職先で、役立つからである。


 人が行動する時、そこには目的がある


家の中で椅子から立ち上がって洗面所に向かう時、歯を磨くとか、顔を洗うとか、メイクをするとか、その時の目的は必ずある。


歯を磨くために洗面所へ行こうと立ち上がった時、「もしかしたら、歯を磨けないかもしれない」と疑いながら洗面所に行く人はいない。 


ボクシングを練習する目的は、人それぞれである。
家を出て練習に向かう時、そこには目的があるはずである。


健康維持でもダイエットでも、それは立派な目的である。
単純に、いい汗を流してキックボクシングを楽しみたいという人もいる。
強くなりたい、試合に勝ちたい。そんな目的で練習している人も多い。
更に、チャンピオンになることを目標にしている人もいる。


それぞれが、それぞれの目的で、ボクシングをしている。
その目的を達成できないかもしれないと疑い始めた人は、ボクシングから離れていく。 


殆どの人は、自分で限界を決めてしまう。
目的を達成できる人とできない人の差は、そうなりたいと思っているのか、そうなる!と決めているかの違いと言える。
痩せて理想の体になりたいと思っている人と、理想の体になる!と決めている人の違いとも言える。


強くなりたいと思っている人と、強くなる!と決めている人の違いとも言える。


「なりたい」と思っている人は、どれくらいやったら、そうなるんだろう?本当にこれでそうなれるのかな?と考えることが多い。
逆に、「なる!」と決めている人は、なれるのかな?という疑いの気持ちを持たない。
「なる!」と決めている人は、そうなるにはどうしたらよいのかを考え、そうなるまでやるだけ!と考えているだけだからである。


では、私自身における『目的意識』『問題意識』最後に『謙虚』になれる理由を下記に述べてみたい。


まず、私の『目的意識』は、生涯独身であり続けることである。
一生独身で、独り暮らしをするつもりである。子供が要れば、養育費も膨大にかかるし、まして受験戦争で苦しむからである。私も受験で苦しみもがき苦しみ、二浪までしてしまった。周りが幸せに見え、誰とも交流しなくなってしまってた。


次に、私の『問題意識』とは、独りで生き抜いていける強靭な身体造りである。


生涯独身とは、家族も身寄りも居なくたった独りだけで生き抜いていくことである。誰も頼れず、誰も介護してくれない。全て、自身で考え自身で判断していかねばならない。認知症になることも、許されないのである。


独りだけで生き抜いていく為には、強くなければならないのである。


介護の必要ない強靭な身体を、維持向上していかねばならない。そのためにも、私は、ボクシングを練習している。


最後に、私の『謙虚』について、述べてみたい。私は、生涯独身である。
この世で、たった独りだけで生き抜いていく所存である。


独りだけで生き抜いていくには、己の能力だけが頼りである。


能力が命運を握る。


何故なら、たった独りだけで生き抜いていく生涯独身を貫くからである。


能力向上させ、実力を高めるには、常に謙虚な気持ちで対応するしかないのである。


更なる高みを目指すにはストイックになるしかない。


組織では、人が人を評価する。
評価は、評価するその人の相性次第である。仕事をしっかりやっても、相性が悪いと、正当には評価されない。
だからこそ、私は転職せざるを得なかった。
捨てる神あれば、拾う神もある。と言う諺は、組織では死語である。勢力ある人がつけた評価を、自身の立場を保持する為に盲判(めくらばん)に同じ評価をしていくだけだからである。
最初の企業では、『嘘つき』が、評価である。仕事もきちんとこなそうとしてきたのに、『嘘つき』はあり得ない評価である。嘘つきとは、仕事したふりして仕事せず誤魔化したと言う評価である。


まして、それが、盲判(めくらばん)で、評価を素通りさせてたから、正に開いた口が塞がらない。


しかし、どこに行ってもやっていける実力だけは、裏切らないのである。


家康の場合も、『目的意識』『問題意識』『謙虚』を、重大視していたはずである。


まず、家康の目的意識とは、軍旗『 厭離穢土欣求浄土 』と言える。
戦争のない世の中を造ると言う、意味合いである。


 「厭離穢土」は、苦悩や欲望でまみれた(穢れた)この世(穢土)を厭い離れたい(厭離)と願うことである。
特に戦国の世は、自分の欲望の達成のため人を殺してでも手に入れようとする世の中である。
そんな世の中は「嫌だから離れたいー!」ということであろう。


そして「欣求浄土」は、穢土な世の中からさよならし、浄土の世界(仏の世界)を心から喜んで(欣んで)願い求めるという意味である。
 早く、こんな戦国の世などおしまいにしてしまい、浄土の世界に生きていたい!
と言う全うな願いを求めていくことであろう。


次に、家康の問題意識と言えば、徳川軍団を最強にすることである。徳川家は、弱小大名だから、家康は、幼少時代は、人質であった。織田の人質となり今川の人質にもなっていた。
徳川家康が、実力最強なら、徳川家から人質を出す必要がなくなるからであろう。


最後に、家康の『謙虚』さである。
徳川家を実力最強にする為に、優れた人材を敵味方問わずに、徳川家臣にしたことである。家康自身も、勉強家であった。信玄に大敗したが、プライドをかなぐり捨て信玄の部下を、徳川家臣にしてしまった。正に、謙虚でなければ出来ない所作である。


実力こそ最強である。
実力向上させるには、やはり、小さな改善を積み重ねるしかない。


小さな改善こそが強さへの道なのである。
 

タオイズム【道】

タオイズム【道(Tao)】
~道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず


道は一を生じ
一は二を生じ
二は三を生じ
三は万物を生ず

 


老子42章の言葉である。 


まず、私なりの注釈を、簡潔に以下に述べてみたい。
道が見えても、その先に何があるのか?か見えない。、
だから、我々は、謙虚に全て自己責任として、学び続ければならない。
道とは、 姿のない状(すがた)、形のない象(かたち)なのである。


具体的に述べてみたい。
ボクシングの場合、肩甲骨を下にカクンと落として脚の力で、パンチするのが重要と言われる。どうしても肩の力だけで、我々は、パンチしたがる。
肩甲骨をカクンと言われても・・・・?が、実際の心情だろう。
肩甲骨をカクンとさせる道が見えているのに、パンチするのにどのように肩甲骨をカクンとさせるのかが、さっぱり分からない。
その為に試行錯誤しながら、練習するのが、トレーニングなのである。


戦いの真髄とは、戦わずして勝つ
相手にダメージを与え戦闘意欲を失わせることが、戦いの真髄であり、ボクシングの醍醐味と言わる。
その為には、ボクサーは、ボクシング道を極めていく必要があるのである。


戦わずして勝つには、道(タオ)をより知りより理解するしかないのである。


次に、ネットに記載されている解釈を、下記に述べてみたい。


道(タオ)は、人間の言葉で説明できるようなものではない。
その言葉は、おぼろげな輪郭をなぞるだけの単なる点画に過ぎない 。
道が見えても、その先に何があるのか?見えない。


 「道」とは、目で見て確認できるものではない。 しかし、「ない」わけではない。確かに「有る」ものである。
そして、万物の「有」を支配してる…。


この世の万物は、総て道より生じたものと老子は言っている。 
我々人間も、道から生じたものなのである。
 
 はじめに、道(タオ)がある。
天地に先立ちて、実存する絶対的なものである。名づけようもなく、名のない存在である。 


 先ず、「道」があり、ここから「一」が生じる。
そして、「一」から「ニ」つの相対立するもの、相補的なものが生じる。


そこに、「ニ」つのうち、どちらでもない第「三」の沖気(グレーンゾーン)が生じるに至る。


そこに、様々な万物(先の例に例えれば「色相」)が、生じてくる。


「ニ」においては、白と黒である。
しかし、「三」の持つ微妙なバランスが、白と黒の対立を薄め、その対立を和へと導く用(はたらき)をするのである。
 
以上の話を復唱してみたい。


 老子42章には「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負い陽を抱き、沖気以て和を為す。

 


①無=道 → ②有=一 → ③陰と陽=二 → ④陰と陽の混合=三 → ⑤万物


「道」とは、この世界を作り出す根本になったものになる。


以上である。


はっきり言えば、私の場合、老子の言葉は、意味不明な言葉が多すぎる。


老子』の言葉とは、『本質を見失うな!』に尽きると思える。


全体を通して、老子が訴えかけてくる言葉は、「本質を見失うな」ということに尽きよう。

 


更に、老子は語る。


「之を視えども見えず、名づけて夷と曰う。  
 之を聴けども聞こえず、名づけて希と曰う。 
 之を搏てども得ず、名づけて微と曰う。」 


老子は「道」という宇宙の根源を深く承知し、その有り様を体得することを説く哲学である。 


つまり道とは、見ようとしても見えないもの、聞こうとしても聞こえないもの、触ろうとしても触れないものだという。 
一体これは何を表わしているのだろうか。 
この世のものは総てが、「見えるもの、聞こえるもの、触るもの」である。 
我々はそうして世界に暮し、そうしたものの一挙手一投足に、一喜一憂し、悩み苦しみ怒り嘆き、喜び安らぎしている存在である。 
 しかし我々は、もう一つ気付かなければならないことがある。 
この世にはもう一つの存在があることを、知らねばならない。
それは、「見えない、聞こえない、触れない」存在があり、それこそがこの宇宙の根源を成しているのである。 


つまり、むしろ我々が心を向けるべきは、こちらの方なのである。 
これは、一見見えないが、よくよく見る、眼の力で見るのではなく、心によって、心眼によって見るべきものであり、その声は耳で聞くべきではなく、心で聞くべきであり、手で触るべきではなく、心で触るべきものだということを示しているのである。
それでこそ我々は心の安定、つまり「安心」を得ることが出来る。
 
安心の境地とは、見えない、聞こえない、触らないものとの一体感において始めて得られるものである。 


この世の万物は総て道より生じたものと老子は言っている。 
我々人間も、道から生じたものなのである。 


道が無限の存在だからこそ、万物という有限の存在を生み出し続けている。
 
したがって我々は、この無限の存在と一体感を得るべく、「視れども見えず、聴けども聞こえず、搏てども得ず」の存在を相手に生きて、始めて至極の境地に到達できるのである。 


之を視れども見えず
之を聴けども聞こえず
之を搏えんとすれども得ず


それは、形なき形、声なき声。
の・ようなもの。


天地一切万物は、生起滅尽流転する有限有形の存在であるが、
道(タオ)は、生滅と変化を超えたところにある悠久無限無形の実在である。


武術にも、老子の『道』の考え方は、充分当てはまる。


 武術には、通じて、形(型)がある。
形とは、その術をならう方向性を示す指針。古より伝わる形の意味を考え解釈し、研究すべきである。
目に見える形だけに、縛られてはならない。形は、指し示す指であり、本当に見るべきは指の示す先である。
 
万物が、名前を付けられるよりも前の
根源的なモノに通じるのが、道なのである。


この事を、「姿の無い状(すがた)」、「形のない象(かたち)」とも呼べる。 


人間は、物事の本質を求めると強くなる。 
真理とは、無駄を削ぎ落としていった所にある。
無駄なモノを捨てていった最後に、本質だけが残り、それが真理であり、真理に触れた人は強い


練れば練るほど深くなり、ますます分からなくなる
練り続ければ練り続けるほど、あまりにも奥深くて分からなくなる。
それが、専門家の道なのである。


専門家は、同じことを繰り返す。
格闘家も、毎日同じことを反復練習ばかりしている。


 同じようなことを繰り返している(同じような意味のものを並べていく)と、新しい視点(新しいアイディア)は見つからないかもしれない。


しかし、繰り返すから、その本質が見えてくる。
だからこそ、物事の本質を見極めることは一番重要なのである。


いわゆる、慧眼と言えよう。

 

 


 慧眼とは、ネットで下記記載がされている。


慧眼(けいがん・えげん)とは「物事の本質や裏の部分を見抜く事ができる力・洞察力」を言います。もう少しわかりやすくすると、相手の本質や将来を見抜く深い洞察力のことをいう言葉


家康の場合、自然界に逆らわず、【道(Tao)】に従い、無理せず生き抜いた。
だからこそ、秀吉死後、容易く天下獲得、天下統一出来、戦国時代を終わらせられたのである。


最後にタオイズムについて、ネットの記載事項を下記に列記し、文面の最終章としたい。


 道TAO(タオ)とは、古代中国の賢人達が長い年月をかけて自然を観察し
星の運行と人間の行動や健康、運命を観察して発見した
宇宙に貫徹している原理原則のことです。


この道TAO(タオ)は、とうてい人間の手が届かない 大きな宇宙の法則です。


この宇宙が今から138億年まえに、ビッグバンによって出来てから
またそのビッグバンによって宇宙が誕生したその現象さえも象徴している、
天地自然、宇宙の大原則があることを知った中国古代の人達は
その大原則のことを
道TAO(タオ)と名づけました。


古代中国の賢人達は
人間の体も、宇宙の原則である道TAO(タオ)に支配された
小宇宙と考えました。
そしてその小宇宙の生命をつかさどり
動かしているエネルギーを「気」と名づけました。


ですから私達人間も
体内の小宇宙が調和した状態で、無為自然に気が流れているのが
もっとも健康で元気な状態であり、
宇宙に生かされる一つの小さな存在として
この道TAO(タオ)に添って生かされることが
最も幸せで快適で健康な生き方であると
気付いたのでした。    


タオイズムとは


この道TAO(タオ)に添って生かされるという
無為自然の生き方を、タオイズムと呼びます。


そしてこの宇宙に存在するものは
人間だけでなく、すべての生命もまた存在も
道TAO(タオ)の宇宙の原理原則に添って生かされているのです。


天災だけでなく、私達のまわりにあるすべての現象
人間がつくりあげた社会現象も
そして人間関係や、経済活動、国と国の関係も
宇宙的な立場に立って見れば
道TAO(タオ)の原理原則から逸脱することはできないのです。


そのことを考えると
現代の渾沌とした時代を生きぬき
いかなる天災にもむやみにおびえることなく
生きぬくには
今こそタオイズムを学び
無為自然の生き方を身につけることが大事なのです。