タオイズム【道】

タオイズム【道(Tao)】
~道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず


道は一を生じ
一は二を生じ
二は三を生じ
三は万物を生ず

 


老子42章の言葉である。 


まず、私なりの注釈を、簡潔に以下に述べてみたい。
道が見えても、その先に何があるのか?か見えない。、
だから、我々は、謙虚に全て自己責任として、学び続ければならない。
道とは、 姿のない状(すがた)、形のない象(かたち)なのである。


具体的に述べてみたい。
ボクシングの場合、肩甲骨を下にカクンと落として脚の力で、パンチするのが重要と言われる。どうしても肩の力だけで、我々は、パンチしたがる。
肩甲骨をカクンと言われても・・・・?が、実際の心情だろう。
肩甲骨をカクンとさせる道が見えているのに、パンチするのにどのように肩甲骨をカクンとさせるのかが、さっぱり分からない。
その為に試行錯誤しながら、練習するのが、トレーニングなのである。


戦いの真髄とは、戦わずして勝つ
相手にダメージを与え戦闘意欲を失わせることが、戦いの真髄であり、ボクシングの醍醐味と言わる。
その為には、ボクサーは、ボクシング道を極めていく必要があるのである。


戦わずして勝つには、道(タオ)をより知りより理解するしかないのである。


次に、ネットに記載されている解釈を、下記に述べてみたい。


道(タオ)は、人間の言葉で説明できるようなものではない。
その言葉は、おぼろげな輪郭をなぞるだけの単なる点画に過ぎない 。
道が見えても、その先に何があるのか?見えない。


 「道」とは、目で見て確認できるものではない。 しかし、「ない」わけではない。確かに「有る」ものである。
そして、万物の「有」を支配してる…。


この世の万物は、総て道より生じたものと老子は言っている。 
我々人間も、道から生じたものなのである。
 
 はじめに、道(タオ)がある。
天地に先立ちて、実存する絶対的なものである。名づけようもなく、名のない存在である。 


 先ず、「道」があり、ここから「一」が生じる。
そして、「一」から「ニ」つの相対立するもの、相補的なものが生じる。


そこに、「ニ」つのうち、どちらでもない第「三」の沖気(グレーンゾーン)が生じるに至る。


そこに、様々な万物(先の例に例えれば「色相」)が、生じてくる。


「ニ」においては、白と黒である。
しかし、「三」の持つ微妙なバランスが、白と黒の対立を薄め、その対立を和へと導く用(はたらき)をするのである。
 
以上の話を復唱してみたい。


 老子42章には「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負い陽を抱き、沖気以て和を為す。

 


①無=道 → ②有=一 → ③陰と陽=二 → ④陰と陽の混合=三 → ⑤万物


「道」とは、この世界を作り出す根本になったものになる。


以上である。


はっきり言えば、私の場合、老子の言葉は、意味不明な言葉が多すぎる。


老子』の言葉とは、『本質を見失うな!』に尽きると思える。


全体を通して、老子が訴えかけてくる言葉は、「本質を見失うな」ということに尽きよう。

 


更に、老子は語る。


「之を視えども見えず、名づけて夷と曰う。  
 之を聴けども聞こえず、名づけて希と曰う。 
 之を搏てども得ず、名づけて微と曰う。」 


老子は「道」という宇宙の根源を深く承知し、その有り様を体得することを説く哲学である。 


つまり道とは、見ようとしても見えないもの、聞こうとしても聞こえないもの、触ろうとしても触れないものだという。 
一体これは何を表わしているのだろうか。 
この世のものは総てが、「見えるもの、聞こえるもの、触るもの」である。 
我々はそうして世界に暮し、そうしたものの一挙手一投足に、一喜一憂し、悩み苦しみ怒り嘆き、喜び安らぎしている存在である。 
 しかし我々は、もう一つ気付かなければならないことがある。 
この世にはもう一つの存在があることを、知らねばならない。
それは、「見えない、聞こえない、触れない」存在があり、それこそがこの宇宙の根源を成しているのである。 


つまり、むしろ我々が心を向けるべきは、こちらの方なのである。 
これは、一見見えないが、よくよく見る、眼の力で見るのではなく、心によって、心眼によって見るべきものであり、その声は耳で聞くべきではなく、心で聞くべきであり、手で触るべきではなく、心で触るべきものだということを示しているのである。
それでこそ我々は心の安定、つまり「安心」を得ることが出来る。
 
安心の境地とは、見えない、聞こえない、触らないものとの一体感において始めて得られるものである。 


この世の万物は総て道より生じたものと老子は言っている。 
我々人間も、道から生じたものなのである。 


道が無限の存在だからこそ、万物という有限の存在を生み出し続けている。
 
したがって我々は、この無限の存在と一体感を得るべく、「視れども見えず、聴けども聞こえず、搏てども得ず」の存在を相手に生きて、始めて至極の境地に到達できるのである。 


之を視れども見えず
之を聴けども聞こえず
之を搏えんとすれども得ず


それは、形なき形、声なき声。
の・ようなもの。


天地一切万物は、生起滅尽流転する有限有形の存在であるが、
道(タオ)は、生滅と変化を超えたところにある悠久無限無形の実在である。


武術にも、老子の『道』の考え方は、充分当てはまる。


 武術には、通じて、形(型)がある。
形とは、その術をならう方向性を示す指針。古より伝わる形の意味を考え解釈し、研究すべきである。
目に見える形だけに、縛られてはならない。形は、指し示す指であり、本当に見るべきは指の示す先である。
 
万物が、名前を付けられるよりも前の
根源的なモノに通じるのが、道なのである。


この事を、「姿の無い状(すがた)」、「形のない象(かたち)」とも呼べる。 


人間は、物事の本質を求めると強くなる。 
真理とは、無駄を削ぎ落としていった所にある。
無駄なモノを捨てていった最後に、本質だけが残り、それが真理であり、真理に触れた人は強い


練れば練るほど深くなり、ますます分からなくなる
練り続ければ練り続けるほど、あまりにも奥深くて分からなくなる。
それが、専門家の道なのである。


専門家は、同じことを繰り返す。
格闘家も、毎日同じことを反復練習ばかりしている。


 同じようなことを繰り返している(同じような意味のものを並べていく)と、新しい視点(新しいアイディア)は見つからないかもしれない。


しかし、繰り返すから、その本質が見えてくる。
だからこそ、物事の本質を見極めることは一番重要なのである。


いわゆる、慧眼と言えよう。

 

 


 慧眼とは、ネットで下記記載がされている。


慧眼(けいがん・えげん)とは「物事の本質や裏の部分を見抜く事ができる力・洞察力」を言います。もう少しわかりやすくすると、相手の本質や将来を見抜く深い洞察力のことをいう言葉


家康の場合、自然界に逆らわず、【道(Tao)】に従い、無理せず生き抜いた。
だからこそ、秀吉死後、容易く天下獲得、天下統一出来、戦国時代を終わらせられたのである。


最後にタオイズムについて、ネットの記載事項を下記に列記し、文面の最終章としたい。


 道TAO(タオ)とは、古代中国の賢人達が長い年月をかけて自然を観察し
星の運行と人間の行動や健康、運命を観察して発見した
宇宙に貫徹している原理原則のことです。


この道TAO(タオ)は、とうてい人間の手が届かない 大きな宇宙の法則です。


この宇宙が今から138億年まえに、ビッグバンによって出来てから
またそのビッグバンによって宇宙が誕生したその現象さえも象徴している、
天地自然、宇宙の大原則があることを知った中国古代の人達は
その大原則のことを
道TAO(タオ)と名づけました。


古代中国の賢人達は
人間の体も、宇宙の原則である道TAO(タオ)に支配された
小宇宙と考えました。
そしてその小宇宙の生命をつかさどり
動かしているエネルギーを「気」と名づけました。


ですから私達人間も
体内の小宇宙が調和した状態で、無為自然に気が流れているのが
もっとも健康で元気な状態であり、
宇宙に生かされる一つの小さな存在として
この道TAO(タオ)に添って生かされることが
最も幸せで快適で健康な生き方であると
気付いたのでした。    


タオイズムとは


この道TAO(タオ)に添って生かされるという
無為自然の生き方を、タオイズムと呼びます。


そしてこの宇宙に存在するものは
人間だけでなく、すべての生命もまた存在も
道TAO(タオ)の宇宙の原理原則に添って生かされているのです。


天災だけでなく、私達のまわりにあるすべての現象
人間がつくりあげた社会現象も
そして人間関係や、経済活動、国と国の関係も
宇宙的な立場に立って見れば
道TAO(タオ)の原理原則から逸脱することはできないのです。


そのことを考えると
現代の渾沌とした時代を生きぬき
いかなる天災にもむやみにおびえることなく
生きぬくには
今こそタオイズムを学び
無為自然の生き方を身につけることが大事なのです。